殺人は許されない。
犯した者は罰せられる。
鼓笛を鳴らして、大勢を殺す場合を除いて。

(by ヴォルテール)

「アクト・オブ・キリング」

直訳すると、

「殺人を演じる」


「えっ?」

て思いませんか?

「ドラマってこと?」「てか何で虐殺して今普通に取材受けれる状況にあるの?」

等々…。

ちょっと意味が分かりませんよね…。

僕は観た後でも意味が分からないことだらけで整理ができず、鑑賞後一か月以上経ってからようやくこの記事を書いています。


あっ、ちなみにタイトル画像のおじいさん、パッと見てどう思いました?

普通の孫が好きな優しいおじいちゃんっぽいでしょ?というか、多分そうなんでしょう。「一面」では…。

この画像1つとっても「人間の振れ幅」について深く考えさせられます…。


作品紹介



(以下シネマトゥディより引用)
インドネシアで行われた大量虐殺を題材にし、ベルリン国際映画祭観客賞受賞、アカデミー賞にもノミネートされたドキュメンタリー。1960年代にインドネシアで繰り広げられた大量虐殺の加害者たちに、その再現をさせながら彼らの胸中や虐殺の実態に迫る。『フィツカラルド』などの鬼才ヴェルナー・ヘルツォーク、『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』などのエロール・モリス監督が製作総指揮を担当。凶行の再演という独特なスタイルに加え、そこから浮かび上がる人間が抱える闇にドキリとさせられる。

あらすじ

(以下シネマトゥディより引用)
1960年代のインドネシアで行われていた大量虐殺。その実行者たちは100万近くもの人々を殺した身でありながら、現在に至るまで国民的英雄としてたたえられていた。そんな彼らに、どのように虐殺を行っていたのかを再演してもらうことに。まるで映画スターにでもなったかのように、カメラの前で殺人の様子を意気揚々と身振り手振りで説明し、再演していく男たち。だが、そうした異様な再演劇が彼らに思いがけない変化をもたらしていく。

感想

まず、この映画を観る前の僕はこんな前提をもって視聴し始めました。


・「大量の殺人を犯した事実が世界中に知れ渡っているからには何かしら罰せられているはず。」

・「そして、現在は周囲の当然ともいえる激しい仕打ちにより、当時からすれば見る影もない悲惨な生活を送っている。」

・「できれば自分が過去に犯した過ちの恐ろしさについて悔いていてほしい。」



法治国家において法を踏み外して罪を犯せば罰せられるのは当然。

ただ、「戦争」や「紛争」、「内紛」といった非常時はそれが通らないこともまた然り。

それでも、その「コト」が収束した後、その事実が明らかになれば社会から罰せられる。

全く詳しくは無いですが、日本も東京裁判が行われ、ドイツではナチス党員も裁かれている。

そういう理屈ですよね。

この前提の元で映画を観終わった後、2つの強烈な印象が僕には残りました。



まず一つ目は、

虐殺を行った人間たちが堂々と生活し、かつ今なお社会的地位が高い存在である

という事実。

州知事何かと普通に話してますからね。インドネシアの歴史的背景とか勢力の変遷とかは全く分かりませんが、強烈な違和感を感じました。

何なら「英雄」的な取り上げられ方もされてるわけです。意味が分からん。

だけどその事実は実際にある。今も、この瞬間も。

世の中の「矛盾」が淡々と映し出されています。

「歴史は勝者によって創られる」

そんなどこかで聞いた言葉を思い出しました。自分が知らないだけで、今の生活もおびただしい数の犠牲の上に成り立っているのかもしれない…。



そしてもう1つは、

「殺人者たちは取材に応じ自らの行いを誇らしげに語った」

ということ。

「喜々として」とも言い換えられますね。映画をご覧になれば分かると思いますが、本当に「誇らしげ」なんですよ。

アクトオブキリング 再演
(こんな風に)

「最初は殴り殺していたが、血が出て掃除が面倒だったので、やり方をピアノ線を使ったものに変えた。」

なんていう感覚。

「掃除が面倒だったので」

ですよ?

すさまじい。

他にも付き合っていた中国人の彼女の父親を「華僑を殺せ」となったために刺殺してドブに捨ててレンガで殴った、とか。

しかもそれを「笑いながら」言っているわけで…。

「いかに効率的に人を殺せるか?」ということを突き詰めていくとこうなるんでしょうね…。人は「慣れる」生き物ですが、もはや「殺人」が「作業化」しているというか…。そこには何のためらいもハードルも存在しない。

僕たちが良く見聞きする小説や映画、テレビに出てくる殺人犯。

彼ら(彼女ら)って、どこかしら

「自分が悪いことをしている」っていう自覚が垣間見えますよね。

そこには何かしらの理由や背景があって…。見えない影を背負っているとでもいいましょうか…。

だけど、この映画に出てくる当事者たちにはそんな「影」が見えない。

一言でいうと、

「明るい」

苦しんだ末に無理してそうして振る舞っているとか、そういう雰囲気じゃないん。何かが「欠如」している。最後に少しだけ「闇」の部分が映し出されていますが、自分はあれが本当とは思えません…。

そんな大量虐殺を「喜々として」演じた当事者の1人。

彼には今孫がいます。そして、その孫の前ではこんな素の笑顔が出せる。

アクトオブキリング 孫


どうですか?


ゾッとしませんか?

同じ人間の中に「孫思いの優しいおじいちゃん」と「罪悪感の欠片も無い大量殺人者」の全く相反する「顔」が同時に存在するということに…。

全員が全員がサイコパスではないでしょう。子どもの頃から何度も人を殺してきたわけでもなさそう。

いわゆる、

「後天的な殺人狂」

それはつまり、

僕たちもそうなる可能性を秘めている

わけで…。

以前に紹介した以下の2本とも共通するところが多々あり、人間とは良くも悪くも流され慣れる生き物ということを再度痛感しました。

<参考記事>
【映画】 シティ・オブ・ゴッド 【報われない世界】
【映画】 es 【明日はあなたも犯罪者?】


これって本当に、

たまたま

なんですよ。

僕が殺人を犯していないのも、殺人ということを「悪」と認識している価値観であることも、ほとんどは生まれ育った環境の産物。

僕はマザーテレサにもガンジーにもその素質はあったと思います。ただそれが「どれだけ環境に左右されるか」の度合が違うだけで。

環境に左右されやすい自分が放り込まれたら、絶対に殺人を犯していないという自信はありません。

そう考えると、彼らと自分は「たまたま」違う環境に生まれ育っただけで、素質的には何も変わらない。

自分が怖くなります…。




さて、今こうして振り返ってみても、上手くまとめることができませんでした…。

ただ、人間という生き物の底知れない、得体の知れない深さを垣間見ることができる。

そういった作品であることは分かりました。

人生は本当に「たまたま」の連続。他人事、じゃない。

強く、思います。



最後は、「殺人」を「作業に変えた天才」として歴史に名を残すあの男の言葉で締めさせて頂きます。


たった一つの死は悲劇だが、100万の死は統計に過ぎない。

(byスターリン)




P.S.予告編を貼っておきますので、もし興味が出た方はぜひ。

【映画】アクト・オブ・キリング(予告編)